読者専用ネタバレ解説
犯人と犯人の最後の台詞がパスワードとして求められる、講談社のおもしろ特設ページ。
- ほんタメ 話題のミステリ『方舟』のオチを読む人を観察しました ネタバレver.
- 再び方舟の中へ 有栖川有栖
- 共感を呼ぶ、装画寓話 影山徹
こんな特設サイトが構築されるくらい、読後に誰かと共有したい欲が大発生する。
全体像
地下建築に訪れたサークルの7人と3人家族。地震で出入口が塞がれ建物は浸水が進んでいる。構造上、脱出するには一人を犠牲にしなければならなかった。そんな中、殺人事件が起こる。犠牲になるべきは犯人として、生活しながら脱出するために犯人捜しをする。犯人は麻衣。旦那を犯人に仕立てて脱出を図ろうとしていた。エピローグでは推理していた動機が全くの的外れであったことが判明。すべてが生き残るための麻衣の手段であり、溺死するのは麻衣以外であった。
目次
- プロローグ
- 方舟
- 天災と殺人
- 切られた首
- ナイフと爪切り
- 選別
- エピローグ
- 解説 有栖川有栖
どんでん返し作品
評判の通り、素晴らしいどんでん返しでした。ミステリーをほとんど読まないわたし。賞賛する一方で物足りなさも感じていました。結末までのページ数も多く、没入感があまりなかった。やっぱり純文学寄りの作品がより好みかな。というのが直後の感想でしたが、ジワーっと描かれていない部分、行間の恐ろしさが身に染みてきました。薄いと思った方舟での生活や言動の重みが腹の底から少しずつ込み上げてくるようでした。
ノアへの天啓
聖書に登場する『ノアの方舟』は世が乱れ神は人を滅ぼすこととします。善良であったノアには方舟を造り洪水に備えよと伝えます。ノアは方舟を造りすべての生き物を乗せ洪水を乗り切ります。
- ノア≒麻衣
- 天啓≒監視カメラの発見
巨大地下建築と聖書に登場する物語のダブルミーニングでの『方舟』という秀逸な表題。ただし、聖書では洪水から逃れる方舟が、地下建築の方舟は水没する対比。これが美しい。監視カメラで非常口からのみ出られる可能性、いわば天啓を見つけた麻衣は細工を施します。方舟での生活の中で水没した地下3階をボンベを使って非常口からの脱出を計画します。天啓を受けたノアは助かり、ノアを信じなかった人は溺れていく。まさに方舟そのものだった。
痛快な探偵への仕打ち
わたしは探偵が嫌いです。今回の探偵役は主人公の親戚である翔太朗。この密室で常に皆を先導し、最終的に犯人を突き止めるに至る。台詞はいかにも探偵役。自分だけが分かっている事実をあえて遠回しに話すし、主人公に何が思いつくか話させる。こういう回りくどさがミステリーを読まない理由です。まったくもって完璧で非の打ち所がない推理を披露した。きっと翔太朗の脳内ではとんでもない量のドーパミンが分泌されていたに違いない。しかし、動機はまるで的外れで、犯人は当てさせられ、犯人捜しの時間さえも掌の上で、前提から何もかも間違っていた。結果的に、滑稽さを露呈することになってしまったのがあまりにも痛快だった。名探偵などどこにもいなかったのです。いたのは都合よく踊る傀儡だけ。彼は最期どんな悲痛な叫びをあげたのだろうか。
351
では、麻衣さんは?今の時点で、反論しておきたいことがあれば聞きたい」
「いえ、何も。私、翔太郎さんの推理はすごいと思った。完璧なんじゃないかな」
368
翔太郎は、聞き分けの悪い生徒に言い聞かせる先生みたいな口調で言う。
「麻衣さん。俺は、君が、極限状況のときに誰よりも理性的な判断ができることを信じている」
一番嫌な死に方
花がこんな地下で死にたくないという話から始まったサークルメンバーの嫌な死に方シリーズ。
- 花:とにかく、外が見えないところ
- 裕哉:中世とかの、腕と足を馬四頭に縛り付けられて、引っ張ってバラバラにされるやつ
- さやか:焼死
- 隆平:生き埋め
- 柊一:過労死
- 翔太朗:病死
55
最後に残った麻衣は、じっくり考えて、こう答えた。
「私は、溺れるのが嫌かな。溺死」
まだ地震も起きていない状況で結末が示されていた。再読が面白すぎる。
脱出した先
選択肢はもう一つ用意されていた。柊一と一緒に脱出する択。麻衣は備えて二人分のハーネスを作っていた。柊一はそれを自ら手を放し本作の結末を迎える。この選択肢は用意した麻衣にとってリスクが多い。まずボンベの残量を二人で分け、脱出できないかもしれない懸念。さらには脱出した後、生き残った柊一は誰も殺していないが、麻衣は柊一から見て間違いなく殺人犯である。その場では助かっても、社会的には助からない可能性が高い。柊一は麻衣の殺人に救われたという論理で守る可能性も捨てきれない。が、何にせよリスクが高いのは明白といえる。溺死が一番嫌という麻衣が溺死のリスクを高めても柊一との脱出を選択肢に加えた事実。残りの人生を柊一と共に過ごすことにかなりの思考を割いたのではと考えることができる。この仮説を許すとラストがかなり苦しいものになる。小さな可能性ではあるものの、麻衣は信じていた。柊一の選択はほぼ予想通りだった。いくら予期していたとしても、裏切られた悲しさと二度と会えない事実。読後、時間が経つにつれて行間にどこまでも潜っていける気分になりました。
389
今度こそ、僕は床に突っ伏した。昏倒する寸前だった。
スマホから、僕がさっき麻衣に投げた言葉が聞こえた
――じゃあ、さよなら。
行間の奥行がありすぎて、ミステリーではないジャンルで読みたかったとより感じました。麻衣の心のうちを。監視カメラを見つけたとき、溺死する可能性を知ったとき、サークルメンバーを手にかけたとき、人知れずハーネスを準備していたとき、犯人であることを認めたとき、最後の柊一との会話。行動としては合理の極みだった。冗長と感じた犯人捜しの時間もハーネスを作る時間を稼ぐことができればよく、内容は何をしていようが構わない心の表れとすら読めてしまう。
生への執着
257
「私、生きて帰りたいな。どうしても」
生きて帰りたくない人はいない。地下に閉じ込められた全員がそうだ。ちがうのは「どうしても」の部分。麻衣以外は犯人を見つけ出して犠牲を正当化する理由を探していた。反対に麻衣は非情になった。裕哉、さやか、矢崎父の3人を手にかけ、柊一を含めたその他すべてを見捨てる決断をした。「どうしても」の強さが他のそれとはまるで違っていた。本作はよく聞くトロッコ問題とは似て非なるものだ。思考実験のトロッコ問題は線路が二手に分かれた先の一方に5人いて何もしなければ列車は5人をひき殺す。線路のポイントにわたしは立っていて、切り替え機を操作することで5人を救うことができるが切り替えた先の1人をひき殺すことになる。いわば、自分が関与して5人を殺すか、関与せず1人を救うかの問題だ。麻衣の選択は自分が関与して9人を殺すか、関与せず自分を含めて全滅か。
244
「やめて下さい!閉じ込められちゃう!」
矢崎父があと少しで岩を落としてしまうときに柊一と麻衣は止めました。柊一は矢崎父が閉じ込められれば自分たちは出入口から外に出られるが、他者を思い遣る気持ちでふと出た言葉でした。麻衣の真意はまるで別のところにありました。「やめて下さい!(出入口から出ようとしているみんなはどうせ死ぬけど、非常口から出る算段の私が)閉じ込められちゃう!」というカッコ書きが抜け落ちていたのです。
装丁
- カバー装画:影山徹
- 岩の中に見える三層の空間
- 殺人が起こった赤い部屋
- 水没して黒く染まった最下層
- カバーデザイン:小口翔平+畑中茜(tobufune)
方舟の表題は下部が水面のように揺らめいていて、徐々に浸水してくる作中を描写している。

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